たんけんすわのまち NEW御柱篇

今まで上社を主に回ってきましたが、今回は下社が主役。お舟祭りシリーズとして取り上げます。
しかしその前にせっかく今年建て変わった御柱を見なくては話にならないと言うことで上社も見て回りました。
あくまで今回は前座だからね!一応……
さて移動中に木落し公園や宮川に建てられた古御柱を横目に見つつやってきました上社前宮。

お参りをした後は早速御柱チェック。建御柱をまるまる見た一之御柱です。

まだ御柱祭から日が浅いためあまり変色もしておらず、最上部の御幣もしっかりと残っております。
一応四本とも確認していますが、四宮分十六本も写真載せるのはきついので代表として一之御柱を載せています。
さて二之御柱の脇を見ると

小宮の御柱御用材がおいてありました。天神社は前宮の近くにあったのを見たことがあります。
今は小宮祭の真っ最中であり、山出しが終わった御柱が諏訪地域の各所に安置されているようですね。
7/31時点で大祝墓地の近くに相本社の御柱がおいてありました。
さて前宮を出た後は高部地区を周り、大祝や神長官と共に諏訪の祭礼を執り行った神官の
邸宅跡を確認する事に。とはいえ大祝邸や権祝邸は確認済み、
神長官邸は守矢史料館にありますので何度も見ているので、
今回は諏訪市博物館の地図で確認した旧禰宜太夫邸、擬祝邸、(新)禰宜太夫邸、副祝邸を見て回ることに。
…結論から言いますと、記録上は場所に到達しました。ただ、どこも民家となっており痕跡らしきものはありません。
擬祝邸に至っては新築の家になってたし……
大祝邸や権祝邸のような無人の家であればともかく、
人が住んでいると思われる家の場合はこのご時世、
不審者に間違われたり個人情報保護とかでいろいろ言われたくないので写真とかは撮らないことにしています。
ということで一応行ってみた、ということにして五官邸宅巡りは終了しました。
本宮に向かう前に何度か出てきた(権祝)矢島家発祥の碑を確認


ごらんの通り、碑文の最上部には矢島氏の家紋が描かれていますが、真田氏と同じ六文銭となっていますね。
ちなみに神長官守矢氏の場合は、家の鬼瓦を確認したら島津家と同じ○に十字でした。
当然大祝諏方氏は諏訪大社の神紋と同じ諏訪梶です。

本宮近くのこだわり横町で昼食の後、本宮の御柱をチェック。


本宮一之御柱は山出しから里曳きまでずっと見てきた御柱なので非常に思い入れがあります。
裏を見ると曳航ですっかり削れてしまっているのが解りますね。

布橋から見える本一の目処梃子も平成二十年度で使用されたものに変わっていました。
さらに先にある、遷座を終えた西御宝殿を確認します。
今まで立て替え中だったため見るのは初めてです。


下は比較用の東御宝殿です。さすがに新築だけあって色も違えば近くではまだ木の香りが充満していました。

そして参拝を済ませた後、本宮を出発。前宮、本宮は何度も見ているので今回は別の場所も見ておきます。
本宮参道の横の道を御手洗川に沿って上っていくと見えてくるのが法華寺です。


かつて上社は織田信長の息子、信忠によって焼き払われましたが、法華寺は類焼を免れており、
武田家滅亡後に信長がここに駐留して徳川家康ら家臣達に武田家の領地を分け与えたと言われています。
このとき明智光秀に対しては乱暴を働いたため恨みを買ってしまい、
数ヶ月後に本能寺の変を起こす切っ掛けの一つになった、と伝えられています。もしかしたら諏訪明神の祟りかもしれませんが……
法華寺山門を左に曲がり、忠臣蔵で有名な吉良上野介の孫、義周の墓の脇を抜けると前方に神社が見えてきます。

なぜかGoogleMapでは黒縄神社と記載され、覆屋のせいもあって周りが暗く近寄りがたい雰囲気を醸し出しているこの神社ですが、
実際は墨縄神社が正しい名前です。
墨縄とは墨壺と呼ばれる、材木等に直線を引くための大工道具に使われる糸のことであり、
大工にとっては侍にとっての刀と同様重要視されてきたものでした。
そのため墨縄神社は大工の神様を祀ると言われています。近くに諏訪大社があるため宮大工の信仰を集めていたのでしょうか。
この墨縄神社の前を右折して坂を登ると、上諏訪の神宮寺跡が見えてきます。
神宮寺は神仏習合の時代において諏訪大社に併設されたお寺で、かつては五重塔、鐘楼、仁王門、普賢堂など多くの伽藍を備えていましたが、
明治に入ると廃仏毀釈の波に呑まれ、法華寺を除いて全て撤去されてしまいました。


五重塔跡。休憩用のテーブルがあるくらいで礎石すらありません。



こちらには鐘楼や普賢堂があったようですが見事に何もありません。
諏訪明神建御名方神)は上社では普賢菩薩と同一視されていたとのことで普賢堂は重要な建物であったと思われるのですが……

案内板には上社古図が描かれています。元は博物館にあるボロボロ絵図のようです。
描かれた時期が違うので、守矢史料館にある地図とは一部記載が違う箇所もあります。


さて神宮寺跡の端まで行くと五本杉があります。
って写真だと四本しかないぞ!適当なこと言ってんじゃねえ!と思われるかもしれませんが、
実は右から二本目の杉が落雷により消滅してしまっています。
下の写真のように現在は切り株だけが残っています。
五本杉からさらに進むと神宮寺跡を抜け墓地が見えてきますが、そのまま抜けると展望台と書かれた案配版がひっそりと立っています。
ここからほとんど藪としか言いようのない階段を登っていくと急に視界が開けます。
周りは畑になっているようですが畦道を進んでいくと展望台到着。

諏訪市街と八ヶ岳が一望できるお勧めスポットですが、到達するのが大変なためか、あんまり来る人はいないようですね。
ちなみにこの真下、あの凶悪階段で有名な北斗神社があったりします。

実はこの場所は武居畑遺跡と呼ばれる縄文時代の集落があった場所となっています。
南部は上社本宮の神体山となっており、昔はお城もあったようです。
ただ城探しは今回の目的ではないのと熊が出たという噂があるので山には入りませんでしたが、
入り口付近にはやや大きな石祠があります。

こちらは上社末社、下十三所の一つである武居会美酒です。
祭神は建御名方神の兄の事代主神となっています。事代主=えびすとされているのでこの名前になったんでしょうね。
というわけで上社の散策は終了。と行きたいところですが移動する途中で高島城に寄りました。

今回はじっくり中まで見ましたが、最上階からの眺めは風情も何もない現代の町並みなのがなぁ……
さて今度こそ下諏訪へと移動。宿のチェックイン時間まで少し余裕があるのと、道が同じなので秋宮へ向かいます。

途中で食事処兼土産物店の食祭館に秋宮二の古御柱を発見。

境内は明日のお舟祭りの準備が行われており、近くをお舟が通るので、破損を防ぐためか寝入りの杉に多いが掛かっていました。

今度は神楽殿。秋宮は絶賛改修中ですがこちらはまだ工事が始まってないのでしょうか。
拝殿は覆いが掛けられていましたが横から宝殿が少し見えました。

おっと御柱も忘れてはいけませんな。というわけで秋宮一です。

この反対側、秋宮二の脇に境内末社鹿島社があります。


その横にも境内社がありますね。




それぞれ子安社、賀茂上下社、八坂社となっています。
子安社は上社前宮にもありましたが安産祈願をおこなっており、水が通りやすくなるようにと
底のない柄杓を納めます。お社の側面には納められた柄杓が沢山あり、銀色に光っています。
さらに下を見ると子安社内部にある陰陽石が見えたりします。
陰陽石については今更語ることもないでしょう。
ああそうだよ!アレとかナニとかの形をした石だよ!(笑

と微妙なネタで終わるのも何ですが、次回はお舟祭りについて取り上げることにします。